名古屋アンティークマーケット、初出店の記録

青山清利が名古屋アンティークマーケットに初出店した様子と会場の雰囲気

二〇二五年十一月十五日、土曜日。私と妻にとって、初めての名古屋アンティークマーケット出店の朝でした。

申込みから当選まで

帰国してから、家の片づけが少しずつ進んでいました。妻の嫁入り道具のうち長く使われずに眠っていた食器、私が韓国・富川(プチョン)から持ち帰った焼き物、教師時代に集めた古い文学全集──譲ってもよい品が、座敷の片隅に積み上がっていきました。

ある夕食の席で、妻が「フリマでも出してみたら」と切り出したのが、初めての出店の発端でした。私はそれまで、フリマというものに出店する側で関わったことが、まったくありませんでした。

公式サイト(nagoya-antique-market.jp)から応募できると知ったのは、その翌日のことです。「アンティーク(地元枠)」「レトロマーケット」「癒しの館」「古着WEST」「古本とレコードと」「GREEN FREAKS」など、いくつもの区分がありました。私たちは、品揃えからして「アンティーク(地元枠)」が合うと判断し、申し込みました。

出店申込みは「REMAR(リマル)」というサービスを通じて行います。インターネットの操作が不得手な私には、フォームの入力だけでも一仕事でした。妻に手伝ってもらいながら、何とか送信を済ませました。

応募の結果が来るまでの数週間は、落ち着かないものでした。公募制で選考があると分かっていたので、もし落選したら、それはそれで仕方がない、と二人で話していました。当選通知が届いた朝は、妻が思わず「あら」と声を上げました。

開催の約一ヶ月前には、営業許可書などを提出します。私たちは食品を扱わないので調査票は不要でしたが、自分の家の不要品の譲渡が古物商免許の不要な範囲にあることを確認するなど、それなりの準備が要りました。

前夜の値札書きと、当日の朝

出店前夜、妻と二人で値札書きをしました。

百円の品もあれば、五千円ほどの品もあります。値段の付け方は、フリマ未経験の私たちには見当がつきませんでした。「同じような品がいくらで売られているか」をインターネットで調べ、その半額くらいに設定しました。半額にしたのは、初出店の素人だという自覚があったからです。プロのお客さまの目をくぐって買っていただくには、値段で勝負するしかない、と。

値札は、画用紙を切ったものに筆ペンで書きました。これは私の趣味です。墨の文字のほうが、品物に合うような気がしたのです。

当日朝五時、まだ暗いうちに起きました。軽自動車の後部座席を倒し、荷物を積み込みます。段ボール箱六つ、シート、折りたたみのテーブル、釣り銭、メモ帳、傘。妻は「忘れ物はない?」と三度尋ねました。三度目に私が「もうないと思う」と答えたら、「自信なさそうね」と笑われました。

会場は、真宗大谷派 名古屋別院(東別院)。住所は、名古屋市中区橘二の八の五十五。地下鉄名城線「東別院」駅から徒歩数分です。私たちは車で向かいましたが、近くの有料駐車場を事前に押さえていました。

朝七時から設営、十時開場。私たちが着いたのは六時半ごろです。境内には、すでに多くの出店者が車から荷物を下ろしていました。

シートを広げる、商売というより遠足

出店場所は、出店者が選ぶことができません。当日、運営の方から指示された区画が、自分の店になります。これは公式の募集要項にも明記されていました。

私たちに当てがわれたのは、東別院の境内の一角でした。隣の出店者は、戦前の硝子瓶を専門に扱っている方でした。地元枠の常連だそうです。「初出店ですか?」と先に声をかけてくださいました。「ええ、見ての通り素人です」と答えると、「それは楽しみですね」と笑ってくださいました。

シートを広げ、品物を並べていきます。妻の嫁入り道具のうち譲ってもよいと決めた皿が数枚。私が富川から持ち帰ったハングル柄のマグカップ、青磁の小さな壺、伝統文様のハンカチ。古い文学全集の、漱石全集の抜けた巻が二冊。中堅クラスの万年筆が四本。古い切手のシートが十枚ほど。

並べ終えてから、妻と顔を見合わせました。「思ったより、賑やかね」と妻。「ええ、これでも十分」と私。

考えてみれば、商売というより、軽い遠足のようなものです。境内の銀杏が黄色に色づき、別院の屋根が朝日を受けて光っていました。橘町のアスファルトの匂いが、少しだけ古い町の匂いをしていました。

来場者の波と、最初に売れた一品

十時、開場。

東別院の山門・東門・西門の三か所から、リストバンドを腕に巻いた来場者が次々に流れ込んできました。リストバンドは入場料を払って受け取る仕組みで、それを付けていない人は商品を購入できません。これは出店者として、一日中意識していなければならない決まりでした。

二日間で来場者約一万五千人、というのは公式の発表ですが、それを肌で感じる体験は、出店者でないと分からないものです。境内の通路は、午前中から夕方近くまで、人の流れが絶えませんでした。

イーストエリアの会場には、街頭ポスターと公式パンフレットがありました。「三百年、時を越える大人の無駄使い」──これがマーケットの公式コンセプトです。江戸時代に尾張徳川家から古物・古鉄の専売権を授けられた橘町に、現代の蚤の市が二〇一七年に始まり、今に続いている。その歴史を、一行で言い切った言葉です。

最初に売れたのは、ハングル柄のマグカップでした。

二十代と思しき女性が、しゃがんで手に取ってくださいました。「これ、どこで買われたんですか」と尋ねられ、私は「韓国の富川という街です。プチョンと読みます。十年ほど住んでいました」と答えました。すると女性は目を輝かせて、「私、ソウルに留学していたんです。富川は通ったことはあるけど、行ったことはなくて」とおっしゃいました。

値段は二百円でした。「五百円でも買います」と冗談めかして言われましたが、私は「いえ、二百円で結構です。来歴をお伝えできただけで、こちらは十分です」と答えました。

譲るというのは、品物を渡すことではなく、来歴を渡すことなのだと、以前にも気付いたことでした。それが、出店という形でも同じだと、その日初めて分かりました。

失敗の話──値付けと、雨の予兆

ここで、初出店の失敗を一つ書きます。

万年筆が、私の予想よりずっと早く売れました。開場から三十分ほどで、年配の男性が四本まとめて買ってくださったのです。値段は一本三千円から四千円の間で付けていました。男性は「全部いただきます」と即決でした。

軽自動車に戻る道すがら、妻が「あの人、お店の人じゃないかしら」と言いました。万年筆は、専門の古物商から見ると、私の値付けがずいぶん安かったらしいのです。

その日の昼休みに、隣の硝子瓶の方に話したら、「ペリカンの古いモデルなら、状態が良ければもう一桁上の値で売れますよ」と教えてくださいました。私が出した万年筆は、確かにペリカンのものを含んでいました。

「もう少し強気でよかったわね」と妻が言いました。

「次は、そうします」と私は答えました。

午後二時頃から、空が曇り始めました。事前の天気予報では、土曜日は午後から雨が降るかもしれない、ということでした。シートで品物を覆う準備を、隣の方からビニールを借りて整えました。

結局、初日は降らずに済みました。けれども、出店者というのは、空模様にもこれだけ気を配らねばならないものなのか、と、改めて知りました。

イーストエリアは十七時閉場、リストバンドの引き換え受付は終了時刻の三十分前まで、というのが公式の決まりです。十六時を過ぎた頃から、来場者の足は確かに遠のきました。

二日目、撤収のとき

日曜日、二日目。

初日の経験を踏まえて、値付けを少し調整しました。万年筆はもう手元にありませんでしたが、漱石全集は強気に値上げしました。妻の皿も、状態の良いものは少し高くしました。

午後によく売れました。日曜日は、日帰りで遠方から来られる方が多かったのか、初日とはお客さまの層が違っていました。

漱石全集の抜けた二巻は、定年退職を控えていらっしゃるという方が、ご自分の蔵書を補完したいと言って買ってくださいました。妻の皿のうちの一枚は、若いご夫婦が「新婚の食卓に」と言って持ち帰ってくださいました。

十六時頃、隣の硝子瓶の方と「お疲れさまでした」の挨拶を交わしました。戦前の硝子瓶の話を、しばらく聞かせてくださいました。「同じ瓶でも、明治と大正と昭和では、青みの色が違うんですよ」と。私はそれを、教師の癖で、つい手帳にメモしてしまいました。

十七時、撤収です。

売れ残った品をしまい、シートを畳み、テーブルを軽自動車に積み込みます。来た時より荷物は減りましたが、それでも段ボール箱は四つ残っていました。

売り上げの計算は、車に戻ってからしました。具体的な金額は控えますが、思っていたより売れた、というのが妻の感想でした。私のほうは、「思っていたより、たくさん人と話せた」というのが、二日間の感想でした。

橘町、三百年の続き

橘町は、江戸時代に尾張徳川家から唯一、古物・古鉄の専売権を授けられた町だそうです。「三百年、時を越える大人の無駄使い」というコンセプトは、その歴史をそのまま言葉にしたものです。

私と妻が二日間で出した数十点の品が、その三百年の歴史の、ごく小さな、ごく目立たない一部に加わった、と思うと、不思議な気持ちがします。マグカップを買ってくださった若い女性、漱石全集を買ってくださった定年間近の方、皿を買ってくださったご夫婦──あの方々の家で、いまも私たちの品が誰かの暮らしの中にある。

整えて、譲って、軽くなる──このサイトのキャッチコピーは、出店という形でも、確かに成り立つのだと、初日の朝には知らなかったことを、二日目の夕方に知りました。

夕暮れの橘町を、私と妻が乗った軽自動車が、ゆっくりと走り出しました。